宝福寺について

沿革

宝福寺は臨済宗東福寺派の中本山で、西国布教の一拠点として、地方のなかでも有力な禅宗寺院の一つに数えられています。寺伝によると創立年代は不明ながら、日輪大阿閣梨を始祖とする天台宗の古刺であったものを、鎌倉時代の貞永元年(1232)に当時の住職であった鈍庵和尚がこの地に新しく伽藍を建立したと伝えられています。

鈍庵和尚は備中真壁(現総社市真壁)の人で、四条天皇の病気平癒を祈願し、その功績として寺領3千石を賜ったといわれ、その後京都東福寺の開山円爾弁円に寄依しその弟子の玉渓を招くなど、臨済宗の教えに深く感銘して宝福寺を天台宗から臨済宗に改宗しました。そしてこの頃には、七堂伽藍の偉容を整えた寺院となり臨済宗布教の拠点として塔頭子院55、山外末寺300余を数えるほど隆盛を極めたといわれています。なお、七堂とは山門・仏殿・法堂・庫裏・僧堂(禅堂)・浴室・東司の7つの建物を指し、これらの堂塔を中心に伽藍を形成することが禅宗寺院の基本や特徴となっています。

しかし、寺勢を誇っていた宝福寺も戦国時代の天正3年(1575)に備中兵乱の戦禍に遭い、三重塔などわずかの建物を残してことごとく灰煙に帰し、そのため堂塔は荒廃をきわめ一時は非常に衰微したと伝えられています。

罹災後の宝福寺復興について明確に知ることはできませんが、江戸時代に入り岡山藩や浅尾藩から援助を受け、また幕府からも寺領100石の朱印を賜るなど復興していく状況がうかがわれます。伽藍についても歴代住職によって順次再興がはかられ、特に第70世立巌慧久(1695年示寂)は苦心苦労の末、ついに伽藍を再建して当山中興の祖となっています。さらに73世逸堂慧光(1767年示寂)、78世妙峰玄実(1829年示寂)、81世真翁慧逐(1864年示寂)らが相次いで殿堂を復興し、82世九峰一精(1916年示寂)がそれらを整備し、現在見るような一大禅林を完成させたといわれています。

現存する伽藍は東面し、山門・仏殿・三重塔を一直線に配し仏殿の北方に庫裏・方丈を配しています。庫裏の東南方には鐘楼があり、方丈の西北方には禅堂が建っています。その他、経蔵・開山堂が広い寺域内に配され、本伽藍は地方にのこる近世禅宗寺院の代表的な遺構の一つとして注目されています。

参考『井山宝福寺小志』

▲三重塔(国指定重要文化財)

画聖雪舟と宝福寺

雪舟が幼少の時、この井山宝福寺において涙で鼠を描き、和尚さんを大いに感心させたエピソードはあまりにも有名です。この逸話は江戸時代に書かれた『本朝画史』により伝えられる話ですが、今でも、この寺を訪れる客の中には「雪舟が鼠を描いたお堂はどれですか?」と尋ねる人もあるとききます。その『本朝画史』 によると、雪舟は総社市赤浜の生まれで俗姓は小田氏、宝福寺で修行した後、京都相国寺に入り春林周藤より禅を学び、天章周文に水墨画の指導を受けます。

後に、守護大名大内氏の庇護の下で、中国の明に渡り水墨画の技法を学び、独自の様式を完成させます。帰国後、豊後(大分市)において天開図画楼(アトリエ)を営み、山口の雲谷庵では画作に専念する一方で、日本各地を旅し、87歳で没するまでの間、精力的に制作活動を行います。

「四季山水図」 「悪可断管図」「山水長巻」「天橋立図」など、在来の水墨画にない、激しい筆致等は安土桃山時代の画家に大きな影響を与え江戸時代の画家からは画聖と呼ばれました。

▲少年雪舟像